甲突川と武之橋




甲突川は古くは神月川とも言い宇治瀬神社(現鹿児島神社)の神嘗祭から出たと伝えられます。
和泉崎(城山の東南付近)から折れて城山の南麓、今の平之町を流れ、照国神社下から御春屋の俊寛堀、すなわち大野港に注いだと云われ、後に河道を西に移したその後が今の清滝川であり、更に西にしてついに現在の流域になったと伝えられます。
安永年間までは、今の廣馬場以東の地が海であり、平之町から俊寛堀に通ずる流域を想像し、又今の清滝川筋の地勢を考えたとき
斉彬公の時、水産試験のため白魚の卵を武之橋に放種したが、育成しなかったといわれます。

武之橋はそれまで木橋でしたが、当時能学寺の開祖南的和尚が架けたとか、武五郎左衛門重宗が架けたので武殿(タケドン)の橋となったと伝えられています。
ちなみに五郎左衛門と南的和尚は嘉永以前の同時代の人物です。
いずれにしてもこの間、毎年のように腐朽したり、出水のため破壊流出する度に架け替えられました。

どうにか強固な永久橋が出来ないものかと嘉永元年、石工川崎九兵衛が構築したもので、九兵衛は肥後の名工岩永三五郎の弟子になります。

三五郎は天保10年、家老調所廣卿の進言により鹿児島に来て、嘉永2年迄城下の運河や河川の石橋架設をはじめ、前の浜の東風除岸岐(三五郎波止場)や藩内各地の架橋築堤工事の実施に非凡の才能を発揮した石匠でした。
この架橋に要した石材は磯の山から採取したもので石橋の中央のアーチの内側に
「嘉永元年申三月十八日O掛口留入、三十日其次留入、四月三日南掛口留入、同四日其次留入、同O月O日中央之留入、石工 力其功不日也」

と刻してありました。
甲突川最下流に架けられた5連アーチの石橋で全長71m、当時は日本一長大な橋でした。この橋の特長は、長い橋を支えるための橋脚が太く、上流側・下流側ともに堅固な水切で橋壁が覆われています。


残念ながら平成5年8月6日の集中豪雨による大水害によって武之橋は破壊流出してしまいました。


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