乃木静子誕生の地
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乃木 静子(湯地シヅ 幼名 お七・お志知)
鹿児島藩士・湯地 定之の四女 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在塩屋村(現在の新屋敷町)に出生。
乃木希典の妻

1912(
大正元)913日 明治天皇の大葬当日、赤坂の自邸で胸を突いて殉死 918日 葬儀


陸軍大将乃希典の妻静子夫人は戦前の女子教育では理想とされていました。
新屋敷の川沿いの公園の敷地内に銅像が建立されてましたが、先の戦争に於いて、軍の物資に消え、現在ではその土台のみがひっそりと残されています。
是非とも復活を願いたいものです。
妻として、また母として日本女性は如何にあるべきか・・・
「母の訓」という書物が残されておりましたが、絶版しているようです。


乃木 希典   日本陸軍軍人 陸軍大将 従二位勲一等功一級伯爵
1849
1225(嘉永21111)長州藩出身 
江戸麻布日ヶ窪の長府藩邸にて父、長州藩士・乃木希次  母、乃木寿子の間に生まれる

両親から厳しい教育を受け、子供の時、母が片付けていた蚊帳の金具が左目にあたり、これが原因で左目は失明
1863(
文久3)年 15歳の時、元服 源三と改名
1866(
慶應2)6月 文蔵と改名
1866(
慶應2)6月 第二次長州征伐 長州軍に参加
1871
11月 上京 陸軍少佐(大隊長)の辞令を受ける 希典と改名
1875(明治8)12月 熊本鎮台歩兵第十四聯隊長心得 小倉聯隊長
秋月の乱を鎮圧(奇襲作戦を的中させる)
1877(
明治10)年 西南戦争に従軍
 218日 小倉聯隊第3大隊を率いて小倉から出陣
 222日 河原林雄太少尉が戦死し、保持していた軍旗を西郷軍に奪われる
1878(
明治11)126日 東京鎮台第一聯隊長
 827日 湯地シヅ(乃木静子)と結婚
1886(
明治19)11月 陸軍少将の時、渡欧命令をうける
1887(
明治20)1月 熊本第11旅団長
1889(
明治22)3月 近衞第二旅団長
名古屋第五旅団長
1892(明治25)  日清戦争に従軍
旅順要塞を占領 臺灣総督(台湾総督) 一家と共に赴任
1897(明治30)2月 帰国  休職
1898(
明治31)年 陸軍第11師団(善通寺)初代師団長 大将に昇進
日露戦争に従軍(第三軍司令官)
1904(
明治37)52日 第三軍に出動命令
 527日 長男・乃木勝典、南山で戦死
 1130日 二男・乃木保典、203高地を巡る戦闘で戦死
1905(
明治38)11日 旅順要塞降伏
 15日 水師営の会見 ステッセル将軍と会見
1906(
明治39)131日 学習院院長
1912(
明治45)730日 明治天皇崩御
1912(
大正元)910日 裕仁親王(昭和天皇)に山鹿素行の「中朝事実」を贈る
(
重要個所には朱点が入れられ「成人されたときにはお読み下さい」と言ったと伝えられる)
 913日 明治天皇大葬
 08時 静子夫人と共に記念撮影
 09時 参内
 20時 赤坂の自邸で夫人と共に殉死  切腹した上で、喉を突いた
 91815時 出棺 青山齋場で葬儀(神式)
墓所、青山霊園



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