お船魂さぁと島津家




関ケ原の戦で破れた薩摩藩は北進の望みが絶たれ、明との貿易経営を盛んに取り組んでいた南方の琉球王国へ目を向ける。
慶長14年(1609)、幕府の許可を得て、樺山久高を総大将に、また平田増宗を副将として軍船およそ100隻、兵3千人の大隊をなして琉球国を征服。しかし、島津氏は国際的に独立王国たる体制を保つため、自己の支配下に置いて琉球王国を存続させつつ、琉球の持つ対明貿易の権利を剥奪する。この時期より貿易依存、海商優遇、奄美の搾取の強化を行い、藩の財政を支える大きな柱となる。
薩摩軍の舟手(軍港)であったのが現在の稲荷川の河口で、今の戸柱橋付近から乗船していたと思われます。当時この周域は錦江湾に面しており、稲荷川の河口に港が築かれたことから滑川(なめがわ)町あたりにかけ大きな港町が栄え、役人・町人をはじめ船に携わる船頭・水夫・海兵人・舟大工等が居住し、船鍛冶屋等があり大変賑やかであったと伝わります。


これにより、当社の社紋も島津家の丸に十の字となっております。










島津光久公



島津光久(しまづ みつひさ)は江戸時代の外様大名、薩摩藩第2代藩主。

名は虎寿丸・又三郎忠元。家久の長男。従四位上左近衛権中将・薩摩守・大隅守等を歴任。
学問を好み,「寛永大系図」を幕府に献上したり「新編島津氏世録正統系図」を編集させたりした。



経歴等
寛永元年(1624年)に徳川幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永14年(1637年)、島原の乱勃発時に父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだために実際には島原の乱に参加することはなかった。

内政では財政の立て直しのために家老・島津久通に命じて寛永17年(1640年)に長野(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、徳川幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。

また光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。

その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年)隠居して孫・島津綱貴に家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている[3]。元禄7(1694)年に79歳で逝去。

鹿児島の名園・仙巌園はこの光久の命によって築かれた(明治日本の産業革命遺産・世界遺産登録)。また鹿児島県の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる。





家族
※以下の記述は主に「寛政重修諸家譜」参照

父:島津家久
母:薩州家・島津忠清の娘(一説、小西行長の遺腹の子とも)[要出典]
養母:島津義久の娘(亀寿)
正室:伊勢貞豊の娘(曹源院殿、島津家家老・伊勢貞昌の孫娘、万治元年6月11日(1658年)7月11日死去)
長男:島津綱久
長女:満(島津久雄正室)
継室:公家・平松時庸の養女(陽和院殿、実は交野時貞の娘、後光明天皇掌侍、万治2年(1659年)婚姻、寛永15年2月3日(1638年3月18日)〜正徳元年8月12日(1711年9月24日)
側室:松澤氏
次女(島津久憲室)
次男:北郷久定
側室:黒田氏
三女(島津久薫室)
側室:救仁郷氏
四男:島津久岑
側室:津留氏
六男:島津久侶
側室:新納氏
四女(島津忠興[5]室)
五女(入来院重治室)
八女(島津久文室)
側室:玉利氏
八男:喜入忠智
十三女(肝付兼柄室)
側室:有馬氏
九女(島津久供室)
側室:鹽田氏
十四男:桂久祐
側室:岩山氏
十女:鶴(継室・平松氏養女、織田信盛正室)
側室:味方氏
十六男:畠山基明
妾(姓名不詳)[6]
三男:北郷忠長
五男:佐多久逵
七男:鎌田正長
九男:喜入久亮
十男:島津久明(十男)
六女(北郷忠昭室)
七女(伊勢貞顕室)
十一男:島津久当
十二男:某(字「外記」)
十三男:島津久記
十女(桂忠昶室)
十二女(種子島伊時室)
十三女(潁娃久明室→離婚)
十五女(種子島伊時継室)
十七男:入来院重矩
十八男:島津久房(島津重年外祖父)
十六女(島津久輔室)
十七女(島津忠胖室)
十九男:島津久雄[5](十八男)
十八女(3歳で夭折)
十九女(北郷久嘉室)
二十男:税所久皎[7]
養子
養女(実父:島津(基多村)久茂(島津忠長の孫)、島津久雄継室)



脚注
『鹿児島県の不思議事典』新人物往来社 ISBN 4-404-02994-2
「職掌起原」では初代異国方宗門方掛け家老という。
『藩史大事典』7巻「九州編」雄山閣 ISBN 4-639-00725-6
鶴屋八幡HP
^ a b 同時代の佐土原藩主とは同名別人
「寛政重修諸家譜」では「某氏」、「島津氏正統系譜」では「家女房」とある。
家臣高橋氏の婿養子となったが後に離婚し、母方の税所氏を継いだとされる(「御家譜」)





参考…島津光久 - Wikipedia