御  由   緒


 船 魂 神 社 (フナタマジンシャ)


  【鎮座地】  鹿児島市新屋敷町五番十五号

  【御祭神】  伊坐那伎尊
(イザナギノミコト)   伊坐那美尊(イザナミノミコト)

          猿田彦命
(サルタヒコノミコト)


          住吉三神 
            底筒男命・中筒男命・表筒男命
            
(ソコツツノミコ・ナカツノミコト・ウワツツノミコト)

  【例祭日】  二月十八日   五月 二日   十月 二日

  【境 内】  145坪

  【現等級】  三級社(旧村社)






鹿児島市新屋敷町に鎮座する船魂神社は昔から「おふなたまさぁー」と呼ばれ広く親しまれています。
「おふなたまさぁー」すなわち「おふなたま」とは、「おふなで」・「御船出」という意味です。また船霊とも表し、航海の安全を願う意でもあります。
桜島を背景に広大な錦江湾が控える現在の新屋敷町
一帯は、鶴丸城より南東に位置し、加子(カコ)町と呼ばれてました。
現在の城南町や錦江町〜与次郎一帯は後に埋め立てられて出来ました。「加子」とは水夫であり、薩摩藩水軍の基地があったとされます。
その頃は「船手」と呼ばれ、慶安(1648〜1652)以前の鹿児島切絵図には、『御船手・七千弐百参拾壱坪』と明記されており、
そこに道先案内や軍神の神として祀られていたようです。
慶安(1650年頃)以前は稲荷川河口に薩摩水軍の基地があり、これが現在の新屋敷に遷ったのです。


(参考・・・豊増哲夫著「古地図に見るかごしまの町」春苑堂出版)







また、鹿児島薩摩では島津家との縁やかかわりが非常に深い神社・仏閣が当然多く、当社もこれにあたります。

明暦三年(1657)、第二代薩摩藩主(第十九代島津家当主)光久公が海上擁護の為、船手に勧請し給ふ。
その後、現在の地に鎮座。明治三年、松原町鎮座の住吉神社を合祀し海上安全の守護神として広く崇敬される。

   (昭和十年 鹿児島県神職会編より)



幕末から明治の初め、藩船を保管する御船手は甲突川右側天保山入口に移りました。
御船出とは、船が港を出航するいわゆる船着き場があり、御船蔵を中心に船頭、水手、船大工等の要因が一園となって居住していました。
「武村の船oに船を入るること能はず、向江船手即ち甲突川の右岸天保山の内方に船手を分立したるは近世のことにして之を最後の地なりとす」(薩藩海軍史)
御船蔵が狭少の為、船を入れることが不可能になったばかりでなく、たび重なる洪水等の水害に見舞われ大量の砂が堆積して川底が浅くなり船の出入りが困難になり、新しく武村(今の武之橋付近より南林寺{古くは塩屋町}にかけて武村に属す)から天保山に及ぶ甲突川河口に移されました。
藩政末期には西洋型の大船巨舶になった為、まったくその用をなさなくなり漆塗の御座船が昔の名残りを留めて繁留していたそうです。
しかし、この西洋型帆船蒸気汽船の乗組員は最初、御船手組の者がこれにあたり、薩藩海軍の創始に当たっては重要な役割を演じました。

参 考

鹿児島市歴史地理散D 「坂本村と西田村の村界について」

鹿児島の埋立地1 江戸時代の埋立





「明暦3年、島津19代藩主光久公が海上庇護の為、船手に勧請し給ふ」
とあり、稲荷川戸柱河口の舟手に鎮座していたものをその後、現在の地に「船魂廟」として遷座されました。

「神社明細帳」に大正5年8月8日住吉神社を船魂神社に改称とも記載されている。また日露戦争の英雄、東郷平八郎元帥も帰鹿した折には個人的に当社へご参拝されていたそうです。










現在でも交通航海・土木開業・農林水産業・開運・生活守護のお宮として広く崇敬を受けております。
この周辺は商業街も近いためマンション住宅に囲まれており、小じんまりとしたお社ですが、ぜひ一度御参拝下さい。






島津久光公(1616〜1694) 島津藩2代藩主・島津家第19代当主(1638〜1687)      初代藩主・島津家久の子、島津義久の玄孫



寛永元年(1624年)に徳川幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永8年(1631年)4月1日、将軍徳川家光から、松平の名字と、「光」の一字を与えられ、「松平薩摩守光久」と称する。寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだために実際には島原の乱に参加することはなかった。

内政では財政の立て直しのために家老の島津久通に命じて寛永17年(1640年)に長野(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、徳川幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。

また光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。
その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年)隠居して孫・島津綱貴に家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている。
鹿児島の名園・仙巌園はこの光久の命によって築かれた物である。また鹿児島県の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる。

 (画像 仙巌園 より転載)









社殿の造り   御船手跡地




お船魂さぁと島津家









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